あ、タイトルは軽い釣りです。

舐めたブログによる、舐めたコラムに対する反論も含めたちょっと喧嘩を売るコラムを書きたいと思います。個人的にこういう偉そうなことを書くコラム的なのは性に合わないのですが、あまりに的外れなことを言うアホが居たときに誰も反論しないっていうのも癪に障るなと思っていたのでね。

・レビューに測定値は必要か
まず最初に「レビューに測定値は必要か」という話をしたいと思います。
まぁ、こんなもん私のブログの読者なら理解してくれるとは思いますが、私の立場は「あっても良いし、無くても良い」という至極当たり前の回答になります。イヤホンのレビューにおいて測定値というものは1つの指標としては有効だと思いますし、こういったものを重視する考えは全然アリだと思います。実際現状はオーディオのレビューは測定値を重視するサイトが多くあります。

ただ、その上で私は何故測定値を載せないのか。これは正直本音を言えば面倒くさいからという理由が大きくはあるのですが、基本的には「測定値より自分の耳で聴いた印象というものを大切にしたい」という思いもあるからです。そして、最近は測定値に対する万能説のようなものが蔓延っていますが、私はそれは違うと思うのです。それは測定値が音を全て表せないからとか、そういう話ではなくて、測定値に偏重する場合オーディオのレビューにおいて「言葉」なんてものは必要なくなるという意味です。

測定値というのは正しい環境で測った場合は1つの指標としては確かに有用です。しかし、その測定値を載せた上で、自分の聴感を元に言葉で音質を語るレビューを書いたとします。その時に何が起きるか、それは測定値と自身の聴覚による印象のズレです。人間の耳というのは結構いい加減なものです。自分がフラットな音のバランスだと思ったものが、測定結果を見たら全然ドンシャリの傾向だったりとか、そういうことは往々にしてあるかなと思います。でも、測定値という結果が明確に出ている。なので当然そこに矛盾が生じるわけです。

その場合、書き手ができることは何でしょうか?矛盾をそのまま残すことでしょうか?実際は測定値の結果を見直して「ああ確かによく聴いたら違っていた」なんて言いながら、正当化して自身の聴覚上の感想を測定値の結果に寄せていくことが多いのではないかと思います。これをやり始めた場合、聴感による音質のレビューは全く意味を成しません。これなら測定値を睨めっこして製品の音を耳で確かめず、測定結果のグラフの結果を解説するだけで十分でしょう。結果としては何も変わりません。

私は聴感上の感想を大事にしたいです。なので、仮に私が測定値を自身のブログに記載することになったら「測定上はそうだったけど、私の聴感ではこう感じました。」と、先ほどのような測定値による結果と、自身の聴感による矛盾の部分は両方記載する方法を取ると思います。

・測定値の記載が無いレビューは信用できないのか

前述した内容でもうほぼ答えは書いてしまっているのですが、測定値の記載が無いレビューはただの妄言だなどと舐めたことを言い出す輩が居たので、そこは明確に否定しようかなと思います。

私はイヤホン、ヘッドホンに関しては趣味として楽しんでいます。私はオーディオを専業としているプロのレビュアーではありません。あくまで趣味として音楽を楽しみ、その中でオーディオ製品の評価というのも趣味の範疇として行っています。

私はレビューに正確性等は大して求めていません。レビューというのは私がオーディオ製品を聴いた感想をそのまま表現するための物であり、それに正解も不正解も無いと思うからです。そして、レビューに変に正確性を求めることは、一般の批評を委縮させる行為であり、とてもバカバカしいと考えています。

世の中にはオーディオ以外にも色々な批評があります。
例えば料理で例えるとしましょう。世の中の飲食店の料理のレビューでは多くの素人が口コミという形で、ネット上に感想を書いており、あれも1つの形のレビューだと思います。これをオーディオの「測定値を載せないレビューは妄言だ」等という主張と合わせて考えると、「料理の知識も無い人間の味の評価は妄言だ」もっと言えば「味に対する科学的知見が無い人間の評価は妄言だ」と言っているようなものです。勿論、料理の知識がある人間の批評、科学的知識のある人間の批評が一般人の批評より一目置かれるというのは全然あることだし、悪いことではないと思います。しかし、ただの一般客の批評が蔑ろにされるのは違うだろうと私は思うのです。
勿論、これは極論です。ですが、私はこういう「批評に対する委縮」をとても恐れています。

・「正しいレビュー」を求めることによる「批評に対する委縮」の危険性。

世の中には色々な製品があります。その中で、製品としては非常に良い出来であるのに埋もれてしまい話題にならずに消えていくものは結構あります。それらにとって必要なのは「批評家による正しいレビュー」でしょうか。私は正しくなかろうと何でもいい、一般ユーザーの純粋な感想による批評こそ必要なのだと思います。だって、批評家の目に留まらずそのまま消えていく製品が増えるより、正しかろうが正しくなかろうと、誰かの感想があったほうが情報として有難くないですか?

私は今Symphonium audio製品の割引企画をやっています。これで大切なのは私のレビューではありません。あくまで私のレビューで波及できるのはこのブログの読者というごく一部の人だけです。重要なのは、買った人たちの批評が多く流れることで、その輪が大きくなって製品が広まっていくことを期待しているのです。私のレビューはその1つのきっかけでしかないのです。(勿論、そのきっかけとしてのレビューは大切に書いていますけどね)

今は良い時代になりました。イヤホン、ヘッドホンは新製品がすぐに店頭に試聴機が並び、その感想が数日もすればSNSに大量に溢れます。それは短文でありますが、一種の批評です。それに正しい、間違っている等という議論は無粋だと思うのです。だって、その人は聴感上そう思ったのですから、それはどんな感想であろうと1つの正解なのです。そして、こういった感想の1つ1つは尊重されるべきだし、訳のわからない第三者に「そんな評価は妄言だ」等と言われる筋合いはないと思うのです。私は妄言だろうと、そういった感想が大量に溢れる批評の空気感を求めたいです。

・参考になるレビューとは何か?

こんなものの回答は簡単です。「その人の感性に合った人間のレビュー」です。そのうえで感性が合うかわからない相手が書いてあるのだがら、測定値という結果を見て判断するというのは1つの指標として有用でしょう。ですが、その人の参考になるレビューは決して「他人が決めた参考になるレビュー」ではないことを強調したいと思います。

こんなクソみたいなコラム書いてないでレビュー書けって話ですよね本当(苦笑)